創始者について

経歴について

更田時蔵の胸像

以下については建築史家、岡田義治氏の資料に基づく。
更田時蔵は明治26年(1893年)、鳥取県東伯郡松崎村(現・湯梨浜町)で木材業を営む更田源太郎の三男として生まれた。明治43年に創設された早稲田工手学校の第1回生として入学し佐藤功一の教えを受け、のちに飯田徳三郎設計事務所にて建築設計・施工を学び、その後栃木県内務部土木課建築係に勤務した。
大正8年には神戸電気局電気事業拡張工事部に転じ、発電所、変電所、運輸事務所本館の設計・監理を担当した。当時、同僚であった米国人技師の設計指導を受け、耐震・耐火建築物の設計に自信を深めていった。
大正9年元栃木県土木部長の川崎三一郎氏が宇都宮市長に就任するや、誠実で卓越した技術に着目した市長の再三の懇願を受けて、宇都宮市の設計主任に着任した。そして当時木造建築が主流であった市の施設を次々に鉄筋コンクリート造りに建て替えていった。大正12年(1923年)に更田建築事務所を創業し、関東大震災後の京浜地方の震災復興業務に数多く携わった。震災復興業務が一段落した後は、栃木県内を中心に多くの建築物について携わった。そして、昭和36年には栃木県内の建築設計の技術向上の功績により黄綬褒章を賜った。翌年昭和37年に69歳で逝去した。
更田時蔵の性格は誠実実直な性格で、緻密さがあり、仕事に対しては妥協を許さない一徹な態度であった。創業当時、建築設計業務は社会から理解が得られなかった。誠心誠意仕事をしても報酬が得られず、事務所の維持には大変な苦労を強いられた。そんな中で、毅然とした設計活動を行い、社会に設計事務所の存在を認めさせる契機をつくった意義は大きい。
更田時蔵の作風は西洋建築の意匠や鉄筋コンクリート造、鉄骨造などをはじめとする新しい建築教育を受けて、当時の高級技術者が集う建築部門で磨かれた実力を反映した本格的なものが多かった。諸団体での役員歴は昭和4年日本建築学会正会員、昭和25年1級建築士(第3370号)、昭和27年栃木県建築士会設立に発起人の一人として参画し、副会長に選出された。

主な仕事

株式会社フケタ設計の経歴書(更田建築事務所は現在フケタ設計となっている)によれば、更田時蔵は大正12年より昭和36年まで栃木県内各所の尋常小学校等約400件の設計監理業務に携わった。そのうち大谷石関連は住宅、農業用倉庫など17件である。ここでは時蔵が建築家としての意気込みを持って取り組んだと思われる30代の代表的な作品をいくつか紹介する。創業時の業務である大正12年の宇都宮市中央火の見櫓、当時の先進的な建築雑誌に掲載された大正15年の横浜市に建つ村山病院、県内に現存する昭和3年の旧大谷公会堂、旧大内村役場庁舎、昭和7年の坪山代議士邸等である。

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